神奈川の片田舎で中学生と小学生の子どもたちと、のんびり田舎暮らしを満喫しています。
生まれも育ちも東京・世田谷。
就職して一人暮らしを始めてからも上尾、熊谷、武蔵小杉、ふたたび世田谷。


そこそこ大きな都市にしか住んだことがなかったのに、
なーぜーか、下の子の小学校入学に合わせて思い切って教育移住!!


通学途中にはイノシシに遭遇し、「クマが出るからお迎えに来てください」って
学校から緊急連絡が入るような山の中で暮らしています。

ギャップ、えぐっ! 

でも、田舎ならではのピンポンなしで「あゆみん、いる~?」って
玄関開けるご近所さんがたくさんいるような濃ゆい人づきあいに支えられて、
人生初の田舎暮らしを満喫しています。

移住すると決めた時には、周りのママ友には驚かれたし、夫は本当にやっていけるのかと半信半疑。

でも、その前の年にフィリピンのセブ島とニュージーランドに母子留学をして自分が大きく変わったから、
絶対できる!と確信して、東京の便利な暮らしを捨てて田舎へやってきたのです。

今は、子どもたちもこの環境にすっかり溶け込んで、移住大成功!
東京にいた時よりも家族の距離が近くなって、子どもと一緒に泣いたり笑ったり怒ったり、
ありのままの自分でかっこつけずに生きることが出来ています。

移住したばかりのころ 
思い立ったらお庭でBBQなんて東京じゃ無理だった!

しんどい時に、「助けて!」って言えば助けてくれる
ご近所さんやママ友がいて、
ひとりでがんばらなくていいのもありがたい!

こっちに来て、弱くてダメな自分をさらけ出せるようになりました。

仕事もフルリモートでできるので、かえって効率よく回せるようになったのも大きなメリット!

いつでも家にいて、おかえりー!って子どもたちを迎えられるのは幸せですよね。

でも、都会の空気が恋しくなるので、時々は打ち合わせや講演などで都心に出る機会を作ってはリフレッシュもしています(笑)。
田舎には田舎の、都会には都会の良さが、それぞれありますもんね!

こんな風に自由に自分の生き方を選べて、子どもたちとありのままの自分でいられる生活ができるなんて、あのとき思い切って決断して本当に良かったと、今は心から思っています

でも……

数年前のわたしは人の目が気になって、
いつだって笑顔を張りつけて相手が不快にならないようにって
先回りして言葉を選んでいたんです。

周りと違うことをするのが怖くて、
ランチだって自分が食べたいものよりみんなと同じようなものを食べるのが当たり前!

臆病で周りと一緒じゃないと不安になっちゃう。
やりたいことがあっても周りを気にして引っ込めちゃう。

自分がない日々を送っていたんです。

というのも、私の人生はいかに周囲からはみ出さないようにするか、
周りと同じに生きるかっていうことが最重要課題だったから。

周りと違うことをする=人生の破綻だったんです。

「良い子」のレールを目指した人生だった

小学生のころは型破りで好奇心旺盛で感受性豊かなおてんばさん
夏目漱石の「坊ちゃん」そっくりだったんだよね。
気になることがあるとやってみないといられないような、破天荒女子だったの。

木があれば登る。
虫がいれば追いかける。
知らないお店は入ってみる(笑)。
宇宙人と文通できるかもって、
謎の文字で書いたお手紙を窓辺に置いてお返事待ってた小学1年生(笑)。

木登りはあいかわらず好きですねー(笑)

「ちいちゃんのかげおくり」を読んで授業中号泣したかと思えば、
休み時間にはドッジボールで男子を泣かす。体力も感情も力加減を知らないから、
いつだって全力で世の中と向き合っている、不器用な小学生時代。

でも、それは周りの子たちからすればただの「変な子」

どうやら周りとちょっと違うみたいと気づいたのは中学生になってから。
そのころから、周りの子たちを観察して「適当に」合わせる術を身につけていきました。
周囲から浮かないように、同じようにっていう生き方にシフトチェンジしたんですね。
おかげで、高校、大学とそれなりに友だちもいて、「普通の女の子」の仮面をつけて楽しく青春enjoy!

一方で、親からは「良い学校→良い就職」というTHE・昭和の価値観を植え付けられて、
小4から日〇研に通うエリート女子。

ところが、家の事情で中学受験はせずに公立進学
4月に制服着て日〇研に顔出した時の、塾長のゴキブリ見るような目、一生忘れないですよ。

「わたしはココにいてはいけない人種なんですね」って12歳ながらに悟り、
リベンジは高校受験でって思っていたのに、第一志望の都立に一点足らず不合格
なんの因果か、滑り止めだった隣の私立に入学して毎朝不合格の現実を突きつけられるという辛酸舐め子……。

親からは「金食い虫」「新聞配達でもしろ」って言われ続けて、もう本当にあとがない大学入試。

見事に第一志望、、、、、、不・合格~!!

泣きました、お布団かぶって声を押し殺して泣きました。


内部進学する子がほとんどだったから、「浪人する」なんて言えなくて、
滑り止めで受かってた地方大学には入学するけど仮面浪人で来年リベンジするんだ~って、
カスみたいな見栄張って浪人生活スタート。

なのにどうして、なのになぜ、
あんなに勉強したのに、
母をぎゃふんと言わせるはずだったのに、、、

いまだに捨てられない当時のテキストたち


おんなじパターンで翌春ふたたび、


第一志望、不合格。

なんでそうなる……(泣)

ひとり暮らしが怖くて地方大学はあきらめて、またまたお金のかかる私立へ入学。


無駄なお金を使わせる私はダメな娘だって、
住み込みで新聞配達しながら大学行こうと新聞奨学生の面接まで受けたのに、
世間体第一の母から猛反対されて断念。
だったら新聞配達しろなんて最初から言わなきゃいいのにね。
でもね、母に言われたらそんなことでさえやらなきゃいけないって思ったの。

中学受験はさせてもらえず、
高校受験も大学受験も第一志望には入れなかった……。

私なんて何やったってうまくいかないんだ、ダメな人間なんだって、
大学時代の本当の私は劣等感のかたまり、コンプレックス爆弾。

お金稼がなきゃいけないからってバイト三昧で授業なんてろくに出ず、
そのうちバイトじゃなくてカラオケ三昧で授業さぼってすれっすれで単位だけは取ってるような、
そんな学生生活。

さすがの自堕落さに、これじゃいけないって体育会系のバレー部に入ったの。

部活だけはって一生懸命だった。

初心者だったんだけど、高2の時の体育のテストでバレーボールの実技が100点で、
体育で100点なんて取ったことなかったからバレーボールだったらできるかもって思っちゃったの。

始めたら一生懸命だから、最後は経験者の同期からも推薦されてキャプテンまで務めたよ

だけどね、学生の本分はすっかりおざなり。
成績もかつかつだし、ゼミの研究も本当に薄っぺらくって、
結局、根っこにしみついた劣等感はずっとくすぶり続けたままの4年間。

先生になりたかった

ずっとね、先生になりたかったの。

小4の七夕の短冊がこないだアルバム整理してたら出てきてね、そこにはもう書いてあった、
「保育園の先生になりたい」って。すっかり忘れてたけど、ずっと憧れていたんだね。

本好き、俳句好きを加速させてくれた国語の先生に中学生の時に出会って、
わたしも言葉のおもしろさを子どもたちに伝えたい!って国語の先生を目指すようになって

高校時代には、さっきのバレーで100点つけてくれた先生が精神的にすっごく支えてくれたから、
わたしも高校っていう最後の「学校」っていう場所で生徒を支える仕事がしたいって
高校の先生になることを決めたの。

高校の国語の先生になる!

それが、私の大きな夢だったんだよね。

なのにさ、バイトと部活に明け暮れて本業ほったらかしの教育実習生なんて、
百戦錬磨の現役の先生にはすぐバレちゃうよね。

母校に戻って、あの先生に教わりたかったって憧れていた
国語の大ベテランの先生が指導教官についてくれたのに、
授業の薄っぺらさと学生気分の浮かれた態度にあきれ返って
「お前の熱意はそんなものなんだな」って、
実習の最終日に言われちゃったよ。

4年間の堕落した自分を見透かされたようで、恥ずかしくて悔しくって、
これが実習途中で言われてたら逃げ出してたなって。

教員になりたい、でも自信がない。教育実習ですっかり自信喪失して、
企業の面接も受けてみたりしたけど、当然付け焼刃で通るわけもなく、ますます自信を無くして、
もうどこでもいいや!って履歴書送ったのが、最初の勤務校になる北関東の私立高校。

失敗しかなかった受験人生で、
初めて「先生になる」っていう第一志望が叶ったの!

夢だった教員生活の実態は?!

夢だった教員ライフ、そしてひとり暮らし。


春休み中に始まった初任者研修で同期とも意気投合して、指導案やクラス計画を一緒に考えたり、
うまくいくかなって不安な気持ちを励まし合ったりして迎えた4月。

シャツにもハンカチにもしっかりアイロンかけて、筆記用具もぜんぶ新しくそろえ直して、
何度も名簿を見て名前も覚えて、いざ教室へ!!

……高1の教室、だよね?

おととい、入学式したばっかだよね??

チャイムが鳴ったのに座っているのはわずか数人。
禁止のはずの携帯を手におしゃべりに夢中な男子たち、
ヘアアイロンで髪の毛くるくるさせてるコギャルの隣には
足を机に上げてすね毛処理する金髪お姉ちゃん……

私の世界に存在しなかった高校生が教室中にあふれてる。

え? なに?? ここって学校だったっけ???

「言葉のおもしろさを伝えたい」どころじゃないじゃん!

え? なに? 何から始めたらいいの??

席に着かせるのが精いっぱい、一方的に授業を進めるのがやっとで、
授業が終わると更衣室に駆け込んで泣き崩れる毎日。
放課後は何かあればすぐ現場に駆けつける警察官並のフットワークの軽さで、生徒のトラブル対応。

わたし、警察学校出身だっけ??

夢も希望もあっという間に消え去って、

何のために教員になったんだろう、
こんな学校で私ができることなんて何もないんじゃないかって、後悔の嵐。

井の中の蛙、世界を知る

それでも、新コース立ち上げメンバーに加えてもらって、

色んな学校の視察をしたり、
カリキュラムを作ったりするのはおもしろくって、

それだけが日々の支えでなんとか生きてたようなもんだった。

そうこうするうちにある種の異文化コミュニケーションにも慣れてきて、
パンツどころかおしりも見えてるずりパンファッションの男子とも、
タメ語以外でしゃべれないコギャルJKとも会話ができるようになってくると、
彼らの半生が心に突き刺さって、

最後の砦の高校の先生になるって思ったのは間違ってなかったって確信したんだよね。

あの子たちは最初からずりパン、コギャルだったわけじゃない。
生徒が生きてきた道すじ、その子の後ろにある家庭や地域の環境……

たくさんの世界を背負って、今ここにいる生徒たちの精いっぱいが見えるようになって来たの

「私、小学校からやり直したらもうちょっとまともになれるのかな?」

授業さぼってトイレでおしゃべりしてた子がポロッてこぼした言葉に、
表面的な問題行動しか見てなかった自分の視野の狭さを痛感したんだよね。

初担任だった高1クラス。
生徒たちの声が分かるようになってきたころ。

世は21世紀を目前にして、
渋谷の街にヤマンバギャルが闊歩し、日本初のメディア学部が新設され、
ひろゆきが2チャンネルを開設したころ。

新米2年目教員の私は、時おりネギの香りを含んだ風が吹き込む埼玉北部の職員室の傍らで、
ひたすらPCを眺めては世界の教育と日本の教育についてリサーチする日々。

ちょうどPISAっていう世界的な学力調査の結果で、日本の子どもたちの学習意欲が低下していること、
思考力や論理力などを中心とした学力が上位から転落したことが話題になっていた。

聞いたことあるんじゃないかな?
フィンランドやオランダの教育はすばらしいという評価が広まったのもこの時のPISAがきっかけだった。

世界の教育は、わたしの中の「学校の当たり前」をひっくり返すのに十分すぎるくらい刺激的だった。

・出すのが当たり前、出されたらやらなきゃいけないのが当たり前の「宿題」がない国がある。

・部活動という概念はなく、先生たちは3時になると学校からいなくなる。

・前を向いて先生の話を聞くなんてめったにない。

・グループになったり、床に座ったり、授業を受けるスタイルはその時々で自由に決まる。

・インプットよりアウトプット、
 とにかくプレゼンやミニ発表会で自分の意見をまとめて、述べる機会がしょっちゅうある。

・学校も学年も自分で選べる。合わない時は学校とその子の相性が悪かったから。
 そんな見方で、積極的に転校を促す。

全員が前を向いて、静かに黙って先生の話を聞いて、黒板に書かれたことをノートに写す。
日本で当たり前に行なわれているそんな授業は、世界を見渡すととってもレア(……というか時代遅れ)だった。

教室の片すみで置いてけぼりにされてきた生徒たちの姿が、
自分に合ったスタイルで学び続けるしかけをいくつも実践している他国の教室に重なる。

もし、この子たちが海外の教室で学んでいたら……?

明治以来、ほぼ変わることなく受け継がれてきた日本の教育に疑問が生じ、
少しでも良い成績を、少しでも偏差値の高い大学へ、安定した専門学校へと指導している自分に
迷いが生まれた。

職員室の先生たちの、のほほんとした姿に危機感を覚えた。

教員って何なんだろう??

先生たちは本当に子どものことを見ようとしているんだろうか? 

高校ではなくて、もっと前の段階から子どもたちの背景を含めて手を差し伸べられたら、
違う未来を生きてたんじゃないか?


「この学校に来たんだから従うしかないって、少しでも早く諦めさせた方が生徒も幸せなのよ」
そんな風に言い放つ先生がいる学校って何なんだろう。

「辞める生徒の進路相談なんて受けてたら、
 そういうケアをしてくれる学校だって評判になるから余計なことはしないで」

留年が決まって、それなら転校するっていう生徒の行き先を一緒に考えることは、
学校の評判を落とすこと。
そんなことが優先される教育って何なんだろう。

学校って何のためにあるんだろう?
子どもの幸せはどこから考えたらいいんだろう??

たくさんの疑問が浮かんで、その答えを追い求めるうちに、
学校と家庭が一緒の方向に向かって進むことが大事なんじゃないかなって思うようになったのね。

新天地での学びと成長

偏差値至上主義、旧態依然で変わろうとしない学校、
そんなものがほとほと嫌になって職場を変えた。

週に一日は探究的な学びのための体験学習を取り入れ、高3では卒業プロジェクトを行なう学校。
偏差値はお世辞にも高いとはいえない、
どちらかと言えばよく一覧の中に名前が載っているというような学校。
生徒会が交渉して制服を廃止したという私服の生徒たち。
これまでの授業が通用しないジレンマ。

前の学校と何が違う? 

何かが確実に違う。

でも、何が違うんだ? 

そんな疑問をかかえて授業に向かう日々。その糸口は、1学期の中間試験で見つかった。

生徒たちを座らせて、問題用紙を配る。チャイムの音で試験開始を告げる。

生徒たちが名前を記入している解答用紙……

一面真っ白。

いやいや、白紙解答じゃなくて、解答欄の枠が一切ないの。

名前を書くための線が一本、右上に引かれているだけの解答用紙。

50分の試験が終わるころ、その解答用紙には思い思いのスタイルで答えが書かれていた。
文章、イラスト、図解……採点どうすんの、これ?!って思いながら答案を回収。
教科担当の先生に手渡すと、先生は笑いながらこう言った。

「自分の考えを伝えるなら、自分が伝えやすい形が一番いいでしょ」

本当は、歌でもダンスでも陶芸だっていいらしい。
かつて本やネットの中で出会った、子どもを軸にした教育のかけらがここにあった

この学校に来て、わたしの教員としての価値観はぐるりんとひっくり返った。
世間でいう「学力」はどちらかと言えば低い生徒たち。
その子たちが、自分の考えをまとめ、表現し、伝えることを通して、堂々と卒業していく。

進路は実に多様だった。

大学、専門学校、留学、就職、モラトリアム的浪人。

けれど、どの子も自分の選択に誇りをもっていたし、進んだ先でも輝いていた

教科の枠にとらわれないでひとつのことをいろんな角度から学んでいくスタイル。
時には他のクラスや担当外の先生まで巻き込んで学びを創っていく授業。
そんな授業のベースをつくるのが何より楽しくて、
こんな学びを生徒たちと共有できることが幸せだった。

  ある時は、「作者と同じ気持ちを味わってみよう」って、屋上で生徒たちと寝転んで空を眺めた。

  「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」

  ある時には生徒に授業を進めてもらって生徒役の私が突っ込むなんてこともしてみたり。

もちろん、こういう授業を快く思わない先生だっていたけれど、
生徒を主にして授業を創り、一緒に進んでいくのはとても楽しい時間だった。

顔を出すコンプレックスと「良い子」信仰

なぁんて、偉そうなことを思っていたけど、平日は毎日21時近くまで残業
入試シーズンは日付が変わってからの帰宅が当たり前、休日返上の部活指導で自分の家庭はそっちのけ

「この学年を送り出したら」「今のプロジェクトが軌道に乗ったら」そんな言い訳をして、妊活は何年も先送り。

仕事ばっかりで気づいたら年齢的にリミットが来てた。
いい加減動かなくちゃねって考え始めた矢先に

夫の浮気が発覚。

そりゃそうだよね、1週間のうち一緒にいられた時間なんて10時間あるかないかだもん。
でもやっぱりすっごくショックだった。
血の気が引いて膝から崩れ落ちるっていう経験を人生で初めてしたよ。

一緒にいるなんて無理って、書き置き残して居場所も告げずに家出したの。
実家に帰ったら母になんて言われるか分からないし、頼れる友だちも近くにいないから、
ウィークリーマンション借りて、そこから出勤。
電話もメールもひっきりなしだったけど、このまま離婚でもいいかなって思ってた。

Google フォトには証拠のアルバムが捨てられずに残ってる…

そしたらさ、妊娠判明。

このタイミングでお腹にやって来るって、どんだけ度胸のある子なのよって、
喜びより先にその肝っ玉の大きさに感服よ。

そんな子がお腹に来てくれたのにこのままではいられないって、
家に帰って父になる責任について夫をこんこんと諭して、やり直すことを決めたの

しかもさ、よりによって高3担任で、産休入りは3学期から。

今までさんざん理由をつけて先延ばしにしてきて、
卒業直前に生徒たちと別れなくちゃいけないっていうのはほんとうにつらかった。
しかも、産むって決めたけど良かったのかと迷いながらの産休入り

心から喜べないのに、生徒を犠牲にする担任ってどうなのよって産休入っても後悔してた。

そんな状態でのマタニティライフだったから、

「この子が良い子に育たなかったから、こんなタイミングで妊娠しちゃった私のせいになる」
「ただでさえ、教師の子はグレるって言われてるのに、この子がちゃんと育たなかったら私の責任だ」

そう思って、絶対に良い子を育てなきゃって思ってた。
母親人生のスタートから、私はちゃんと子育てしなくっちゃって、とにかく必死。

良い母親・良い子育て一直線!

子どもにいいと言われるものはなんでも取り入れて、
とにかく後ろ指さされない子育てをしなきゃって、取り入れられるものはとにかくなんでもやってみた。

自然分娩がいいっていうから、有名な産院に目をつけて早々に予約完了! 
胎教から子どもと関係性をつくるのが大事と聞いて、百万近くする早期教育の教材セットを購入して、
毎日せっせとお腹の子に読み聞かせ。

これでもかってくらいに周到に準備して、少しの隙もないほどに完璧な母として準備した。

ところが出産を終えて、いざ子育て開始となったら、全然母乳が出ない。

退院後3日目の母乳指導で赤ちゃんが脱水症状を起こしていると言われて、即入院。

母乳推奨の産院だったから、乳首が切れて痛かろうが、赤ちゃんが寝ようが、
とにかく吸わせる、吸わせる、吸わせるの徹底指導。
これを乗り越えないと母として失格なんだって、痛みと屈辱に泣きながら搾乳、授乳の繰り返し。

良い母親になるためには言われたとおりにちゃんとできるようにならなくちゃって、ただただ必死。

授乳が安定すれば、発達が気になる。食事が気になる。
睡眠も体重増加も、ちゃんと育ってるのかが気になって仕方がない

平均じゃダメ。

「いい子だね」って言われるためには、周りより秀でた何かがあって、
誰からも好かれる子にならないと。

もはや子どもは、自分の「良い母」度をチェックされるアイテムのよう。
雑誌に掲載されれば親戚一同に知らせ、早期教育の進度評価に落ち込んで、
見ているのは子どもじゃなくて、「子どもの評価」

最強・最恐保育園との出会い

フルタイム復帰するって決めてたけど、少しでも子どもによい保育園を探して、
産後すぐからネットと口コミ頼りの保活に奔走。

自然育児の専門誌「クーヨン」で特集されていた保育園が
無認可だけどすごく良さそうで、なんとか通えそうなエリアだったから、速攻で電話して見学の申込。

運よく本園の方が家から近かったので、本園に入るために全力アピール。
自分の教育観や子育てへの思いまでびっしり便せん5枚にしたためて、
ぜひこの園で親も子も成長させてください!ってお手紙を送ったの。

それが功を奏したのか、
育休明けのタイミングから入園OKをいただけて、晴れて天下のワーママ誕生!!

子どもの育ちを何より大切にしてくれている先生方と、子育てママさん増加中の勤務先。
そんな恵まれた環境で仕事復帰できるなんて、恵まれた環境に感謝しかない4月……のはずだった。

「あなたの愛情が足りないから子どもがダメになってる」

「この子は自分でやる力を親に全部奪われている」

入園早々、母も子も園長先生からダメ出しのオンパレード。
親の私が余計なことをしすぎるせいで子どもは自分を失っているって、
毎日お迎えに行くたびに子育てを否定され、子どもを否定された

普通ならそんなひどいこと言うなんて!って憤慨するところなんだろうけど、
スパルタならスパルタなほど愛があるっていう勘違い世界にいた私は、
園長先生の助言を素直に全部受け入れた。

自分の足を使って登園させなさいと言われれば、
 車で10分の保育園なのに、朝3本しかないバスと歩きで1時間かけて子どもと登園。
園近くに駐車場借りて、そこから職場に車をかっ飛ばして出勤。
 帰りはその駐車場に車を置いてお迎えに行くと、またまたバス&徒歩で1時間かけて帰宅という謎な生活。

まだ1歳になったばかりなのに「自分で着替えさせなさい」って言われれば、
 どんなに時間がかかっても手を出したくなるのを必死で抑えて、子どもがひとりで着替えるのを待っていた。

そうしたら今度は、

「お母さんがなんでもかんでもやろうとするからダメなのよ。もっとバカになりなさい!」

って言われて、ちゃんとやってることがダメで、バカになれとはどういうこと?!って大混乱。
「あなたの考え方が本物じゃないからダブルスタンダードを子どもが感じておかしくなっている」
と叱責され、愛情不足で表現が乏しい、絵にそれが表れている等々。

子育てにも自分にもどんどん自信がなくなっていくようなことばかり言われて、
でも、この人のもとでないとちゃんと子育てが出来ないと依存していくという負の無限ループ
さらに底なしの暗闇に吸い込まれそうになると、

「あなたが一生懸命なのは分かるから、力抜いて子どもと向き合いなさい」

なんて優しい言葉をかけてくれる。
あれ?もしかして私が弱いからへこたれそうになってたのかも、って勘違い。
見事にアメとムチとに振り回される保育園時代

たしかに、子どもは自然の中でたっぷり遊ばせてもらったし、
1歳児のころから仲間と一緒に育ちあう関係を作っていくことができて、
この園に入れて良かったって心から思ってた。

でも、保育としては最強・最高の環境でも、母親である私にとっては最恐の保育園
とうとう、親の方が登園途中に動悸がして園に入れなくなるほどメンタルをやられてしまったのよ。

それでも、その園をやめなかったのは厳しさ=愛情っていう誤った価値観で、
これだけ厳しいことを言われるのは親としてありがたいことなんだってずっと思い込んでいたから。
そして2人目を授かって、少し気持ちに余裕ができたから。

実は2回続けて流産して不育症かもしれない、もう子どもを授かることはないのかもって
絶望してる期間とも重なってたの。
だから、2人目がお腹に来てくれてホッとしたんだよね。

産後うつと長男虐待

2度の流産を経て、ようやくわが家に来てくれた2人目ちゃん。
上の子にもたっぷり愛情を注いで、幸せで穏やかな毎日を送ってた。

最初に小さな異変に気付いたのは、赤ちゃん訪問で来てくれた助産師さんだった。

「お母さん、ちゃんと休めてる?」
「一日が長いなって感じることはある?」
「少し頑張りすぎかもしれないよ」

そんなことを言いながら、
ゆっくりお昼ご飯食べてねって、ご飯のあいだずっと赤ちゃんを抱っこしてくれてたの。

子育てのこと、仕事のこと、赤ちゃんの心配ごと、たくさん話を聞いてくれて、
気づいたら3時間以上家にいてくれた。
帰り際、「またようすを聞かせてね」って言われて、
赤ちゃん訪問ってずいぶん手厚くなったんだなぁなんてのん気に思っていたんだよね。

この時、すでに私は、産後うつの入口に立っていたんだ。

2人目の産後1カ月を過ぎたころから、
まだ4歳になったばかりの長男の言動がいちいち気に障るようになったの。

ご飯を食べるのが遅い、したくに時間がかかる。

そんなことに腹を立てては怒鳴る、突き飛ばす。号泣する長男に怒りはヒートアップして止められない。

なんでこんなことしちゃうんだろう。
湧き上がる怒りをどうしたら抑えられるの?

時間が経てば、冷静に自分を見ることができる。
それだけに、自分がどれほどひどいことをしているのか、
自らに現実を突きつけて何てことをしているんだろうって嗚咽混じりの涙がこみ上げる。

それなのに、翌朝はまた同じように長男をどやしつけて、突き飛ばして、
泣き叫ぶ声に耳をふさいで無視をした

ほどなく、長男はまぶたをピクピクさせて、
ちょっとの物音にもビクッてするようになってしまったの。

それはもう、どうにかなってしまっていた私でさえ、
どうにかしないとまずいって思うくらいの姿、チック症状だった。

このころ、夫との関係も最悪で、
たぶん再構築しようとずっと頑張ってきたのが2人目の産後に一気に無理が出たんだよね。
近くによるだけで吐き気がするほど嫌悪感でいっぱいになってたの。
あいつのせいで私はこんなに苦しいんだ、気持ち悪いから近寄るな、視界に入るなって
心の中でずっと悪態をついてた。

待望の2人目を迎えて人生最高に幸せな日々……は、
一転して家族のだれもが不幸のどん底になった。

どん底なのにどうしていいか分からなくって、
私の心の真ん中にはいつも大きくて冷たい、なまりのようなかたまりがどしんと居座って重苦しくて息がつまってた。

カウンセリングと新しい価値観との出会い

長男のチック症状、抑えられない怒りと夫への嫌悪感。
行き詰った私は、たまたま出会った大学で臨床心理士をしている先生のカウンセリングを受けることにした。

そこで初めて、自分が「産後うつ」に陥っていることを知ったの。
その時まで聞いたことのなかった単語。でも、当てはまることしかない自分の言動。

さらに、幼少期の親との関わりが長男虐待(とは先生は言わなかったけど)の
きっかけになっているって、次から次へと驚く話ばかり。

まだ生後4カ月の下の子を連れて、毎月カウンセリング。電車を乗り継いで1時間半。
決して近くはないこの距離を、でも通わなかったら長男をボロボロにしまうという一心で、
1年半通い続けた。

 (ちょっぴり余談だけど、
  この場所が2度の不合格を受け取ったかつての第一志望の大学だったっていうのも、
  何とも皮肉な話よね)

通っているうちに、見えてきた。

「良い子」を育てようとしていたのは、
良い子でいないと認められないと思っていた私の思い込みからだったということ。

その思い込みは、幼少期に母から刷り込まれたものだったということ。

子どもの発達の過程を知らないがゆえの不安から、
自分が思い込んだ価値観に当てはまるように子育てをしようとしていたということ。

いくつものプロセスを経て、自分がとらわれていた子育ての概念からようやく解放された。
複雑に絡み合っていたことがすこしずつほぐれていって、
長男へのひどい叱責も、夫への嫌悪感も和らいでいったの。

少しずつ、穏やかで平和な時間が増えていった。

だけどね、
カウンセリングで過去は癒せたけど、
自分がこれからどうやって歩いて行ったらいいかが分からない

自分の価値観や思い描いていた未来は自分が創っていたものじゃないって分かってしまったら、
目指す先が見えなくなって人生の迷子になっちゃったの。

子どものこと、パートナーのことを理解できるようになったら、新しい関係が創れるのかなって、
たくさん勉強した。

◇発達心理学や教育心理学
◇乳幼児の発達、生活の作り方
◇脳セラピーからヒプノセラピー
◇子どもの発達と親のかかわり方
◇生活リズムが子どもの発達に及ぼす影響
◇言葉かけが親子関係や夫婦関係をどのように豊かにするか

学んでいくうちに、教員時代にリサーチした海外の教育とつながることがいくつも見つかった

学校教育と幼児教育、高校生の育ちと乳幼児期の発達のつながり。
点と点がつながって線になり、いくつもの線がつながって織りなされた一枚絵のように、
乳幼児期から高校生までの発達と家族のつながりがクリアに見えてきた

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチの通りだった。

  将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。
  できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。
  だから、
  我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。

迷い込んだ袋小路に、小さな抜け道を見つけたような気がした。

そんなとき出会ったのが、
ちりちりパーマにジーンズ素材の着物でビシッと決めたクールなアラフィフママ、岩切弥生さん。

あっけらかんと人の心の奥をのぞき込んで、スパッと切りこんで来る。

「子どもは子ども、あなたはあなたの成長をしていく、それだけでしょ」

って、ようやく見つけた小さな抜け穴なんてダイナマイトで壁ごと吹き飛ばして、
迷い込んだ袋小路から私を救出してくれたのだった。

その言葉自体は、それまでに何度も出会ったことのある言葉だったけど、
その時に初めて、私がわたしでいていいんだって思えたんだよね。

子どもは子どもを生きる。
私は私を生きる。

子育てに必要なのは、ただそれだけ。
本当にシンプルにそれだけ。

そっかー、私は私を生きていなかったんだ!!

母の価値観を自分の価値観だと信じて、
保育園の園長先生に言われることが自分のやるべきことだってゴール設定して、
人の価値観で生きてきたんだ!

目からうろこの大発見!
目の前をおおっていた半透明のフィルターがぽろぽろと剥がれていった。

ただ、周りの目を気にして、みんながやってることから外れないようにして生きてきたから、
私って本当は何が好きだったっけ? どんなことが楽しいの?? 
そんなことが分からなくなっていたのだよ。

本当の自分の生き方ってどんなだったっけ?

この問いが生まれた時、本当の意味での自分の子育てのスタートラインに立てた

本当の自分の生き方ってどんなだったっけ?

周りに合わせていれば平和な毎日が送れる。
そう気づいたのは中2の時だった。

あれから25年、私はいくつの鎧と仮面をまとって生きてきたのだろう。
これらを脱ぎ捨てた後、私には何が残るのだろう。

皮膚と一体化した鎧を脱ぐのは、そう簡単なことではなかった。
これは私の身体ではない。
そう思っても、皮膚を一枚一枚剥いでいくような恐怖と痛みがあった
これが私だと信じていた私は甲冑におおわれた中世の騎士のようにかたくなだった。

あなたの心が湧きたつほど嬉しいのはどんな時?
あなたが心惹かれてやまないものは何?

そんなリハビリのようなやり取りを通して、
少しずつ少しずつ硬い鎧の下でカチコチになっていた「心」に血が通い始めた。

カウンセリングを始めてから4年、弥生さんとの出会いから1年が過ぎるころ、
ようやく型破りで好奇心旺盛だった子ども時代の私が顔をのぞかせた

それは、弥生さんがコーディネイターとして関わった超マニアックなセブツアーがきっかけ。

スラム街に暮らす日本人を訪ねる
一日数時間だけ顔を出す島に上陸する
日本人が買い取った島で島民と一緒に泊まる

どれもこれも旅行会社のツアーや自分で組む旅行でも絶対に行かないようなところばかり。
今までの私の概念になかった場所で、自分が何を感じ、どんな風に動くのか、新しい自分への挑戦!

長男と二人で参加したこのセブツアー。
この旅では制限かけずにやりたいことをやり切って帰って来よう
ひそかに決意して臨んだ1週間。

何でもかんでもやってみた。

小さな釣り船から海に向かってダイブした。
カオハガン島の村人たちと夜更けまで踊り歌い明かした。
そこらじゅうの木に登っては子どもほったらかしでボーっとした。
見たこともない何かの肉(けっきょく何の肉だったんだろう?)を思い切って食べてみた。

日焼け止めなんて意味ないくらいの陽ざしの下で思い切り遊んだ!

やりたい放題しすぎて最終日の一番豪華な宿泊先で腹痛と下痢に襲われて
ベッドとトイレの往復だけで終わってしまったことだけが心残り。

やりたいことがあってもがまんして、
周りに合わせて生きてきた鎧を、セブの海に放り投げてきたんだ。

そんな母の姿に、長男はあきれながらも温かく見守ってくれて(笑)、
彼は彼で自分のやりたいことに果敢に挑戦してた。

日本では慎重派の彼が、「これやりたいから行ってくる!」って言って、
母を置き去りにして他の参加者さんたちと夜のセブの町に繰り出して行く。
現地の子たちに交じって鬼ごっこのような遊びに興じる。

彼は彼で自分の旅をぞんぶんに味わっていた。
お互いに自由に動くことを認め合っていたから、
顔を合わせた時に話を聞くのがおもしろくてたまらない!
いつもより積極的な彼の動きを新鮮な気持ちで眺めながら、
私は私のやりたいことを存分味わいつくした1週間。

最高だった~!!

やりたいことがあったらやらずにいられない。
じっとしているのが苦手で、思ったことはポンポン口から出てきてしまう。

誰の価値観にもそまっていなかった、子どものころの自分を、ようやく取り戻せた。

鎧と仮面を脱いだ後に残っていたもの

着ていることも忘れるくらい自分と一体化していた、他人の価値観と思い込みという鎧・仮面セット。

脱いだら透明人間かもしれない。

脱ぐのが怖かった。

時間はかかったけど、一枚ずつ脱いでいって、
今はもう生まれた時に近いくらいにすっぽんぽん(笑)!

もしかしたら、気づいてないだけでまだ着てるかもしれないけど(笑)。
でもね、もう大丈夫。私は「鎧の脱ぎ方」をマスターしたから!

脱いだら空っぽ、もぬけの殻かもしれないって思っていたけれど、
鎧セットを脱いだら、キラッキラした瞳で世界を見つめる、好奇心いっぱいの私がいたよ。

まだ知らない世界をもっとのぞいてみたい! 
心の動くままに自分を表現したい!!

年齢なんて関係ない!
やりたいと思ったことをやってみよう!
いくつになったって、あふれ出る感情をそのまま解放する素直な自分でいよう!

セブの海に思い切り飛び込んだみたいに、せーの!で世界に飛び出そう。

「誰か」が決めたルールじゃなくて、自分が選んだやり方で、自分だけの世界を創っていこう!!

そんな姿を、子どもに見せていく。

そう、それは2校目の学校で学んだことだった。
周りと比較するんじゃなくて、
自分がどうしたいか、自分はどうありたいか。その1点で歩む道を選んでいった生徒たち。

遠回りしたけど、あの時出会った生徒たちはわたしにとっての道しるべだったんだ。
目の前のことに必死になって、すっかり記憶の彼方に追いやっていた生徒たちの姿。
それを思い出させてくれたのが弥生さんだった。

誰かに言われて動く私から、
自分で考えて自分で選んで自分で決めて、自分の足で自分の道を歩んでいく。

絶望の底から這いあがってきた私が手にしたもの。

それは、かつて私が「世間」とうまく付き合っていくために手放した「本当の自分」だった。

今はもう、誰かが何かを言っても振り回されることはない。
たとえ自信がなくたって、自分が選んだスタイルで進んでいく。
失敗したっていいじゃない、その時はやり直せばいいだけさ。

だって、どん底にいたって自分を生きるために戻ってこられたんだもん。何度だってやり直せるよ。

鎧と仮面がなくなったら、
自分が自分でいることがこんなにも心地よいんだってことを毎瞬味わっている。
自分の感覚で選択したものが自分にとって心地よいって分かるから、
周りに合わせて作り笑いをすることもなくなったよ。

「本当の自分」でいられるようになったらね、子どもたちがとってもリラックスしているのが分かるの。
あの最恐保育園で「バカになりなさい」って言われたのがどういうことか、
5年かけてようやくちょっと分かったような気がしているよ。

かつての鎧ママが、今伝えたいこと

ここまでお付き合いいただいて、ありがとうございました。

お伝えしてきたように、
教員として国内、海外の教育のことを学びながらも母としてはたくさんの挫折を経験し、
どん底をはい回ってきました。
子どもの将来のためという口実を使って、自分の過去を癒そうとしてきました。
古い価値観で子どもをしばりつけて、がんじがらめにしていました。

でも、

だからこそ、今、言えることがあるんです。

巷にはこれでもかっていうくらいたくさんの子育て本が並び、
ネットでは誰もが知った顔をして子育てを論じます。
世間は子育て世代に冷たいとメディアが報じ、
そうした体験をした親たちの声が昼夜を問わず流れてきます。

日本にいると、子育てはつらくて大変で窮屈で、先の見通しはないし、子どもの将来も保障できない
それならせめて学力だけはつけたいと、早期教育に走る。

そんな状態が、本当に望ましい家族の姿だと思いますか?

あなたも、不安を感じながら、
「何か違う」「本当はもっと楽しくて幸せな子育てがしたい」と思っているのではないでしょうか。

漠然とした不安を抱えたまま、この先も子育てをしていきますか?

不安の原因はたった2つです。

1つは、あなた自身が
気づかないうちにもっている思い込みや価値観で子どもを見ていること。

私もそうだったからよく分かるんです。
この思い込みや価値観は、自分以外の人が見つけない限り気がつけないものなんです。
だってこれまで生きてきた人生の中で、まるで自分の肌のようにぴたっと張り付いてしまっているんだもの。

だから、
自分以外の誰かに「それってあなたが思っているだけだよ」って
見つけてもらわないとならないんですね。
見つけて、手放すかどうかは自分で決めていい。

でも、まずは見つけることがスタートラインだよね。

もうひとつの原因は、
情報がたくさんありすぎて情報不足になっているってことなの。

ん?
どういうこと??

そうだよね(笑)。

あのさ、
子どものころ、あんまり長いこと親に叱られて、
怒ってる言葉が全部あたまの上を通り過ぎていってたことないかな(笑)?

あんまりたくさんの情報がなだれ込んでくると、
頭がショートして何にも入ってこなくなっちゃうんだよね。
そうすると、本当は必要なことまで一緒に流れていってしまうの。

残念なことに、子育ての情報発信している人や講座を開いている人はたくさんいるけれど、
表面的なマニュアルの子育てノウハウを伝えている人ばっかり!

本当に大切なのは、その子の人生がどんな道をたどったとしても、

この子はちゃんと大人になって生きていく力をもっているって、
子どもの未来を無条件に信じられることなの。

今どうするかっていう点じゃなくて、今と大人になった時とを線でつなげて見られることなの。

子育ての先にある、
教育っていう大きな視点から子どもの成長した先まで見て必要なことを伝えられる人って、
本当に数えるくらいしかいない。

子どもの成長っていう縦の糸と、
大きく変化する教育や日本とは全く違うアプローチをしている海外の教育を子育てに落とし込んだ横の糸

その2本の糸が組み合わさって初めて、本当の子育てがスタートするんですね。
縦の糸と横の糸のどちらも使っている人があなたのそばにいてくれると、
子育てを通して本当に大切なことに気づけるようになりますよ。

わたしの講座の受講生さんが感想で必ず書いてくださるのが、ここなんです

  「目の前の子どものことしか見えていなかったけれど、
   10年後、20年後のお話を聞いて、焦ることないって気がつけました」

  「どんな子も必ず成長している。
   社会人になった教え子さんの姿を見ているあゆみさんの言葉だから、
   とても説得力があって心に響きました。子どもの成長をゆったりと見られそうです」

  「子育て雑誌の情報に翻弄されていた時にあゆみさんがお話を聞いてくださって、
   あなたが求めているのはこういうことでしょってはっきり伝えてくれたので、気持ちが整理されました。
   お受験のことや最近の教育事情を知って、自分の価値観で子どもを枠にはめようとしていたことに気がつきました」

子育てで迷走した時ほど広い視野で自分と子どもを見てみることが大切で、
それには視点を引き上げてくれるサポーターが必要なんです。

私が最初に担任した子たちは、今年38歳!

もしかしたらあなたより年上かもしれないですね。
その子たちの多くは家庭をもち、親としてあなたと同じように奮闘しています。

18年の教員生活で付き合ってきた生徒は3000人以上。関わってきた家庭は1000を超えます。
そして、900人以上の小さなお子さんがいるママたちに教育と子育てを通して自分らしく生きることを
お伝えしてきました。

だからこそ、声を大にして言いたいんです。

悩みをひとりで抱えないで
今、経験していることのほとんどが、古い価値観を気づかずに持っていて、
それがミスマッチを起こしているだけだから。
それを知れば、子どもと、家族と一緒に、どんな風に家庭や自分を育んでいきたいかが自然に見えてくる。
一緒に価値観のアップデートしようよ!

子育ての悩みにこんなアプローチができるのは私だけだから、
あなたの鎧をとことん脱がせちゃうよ~!!
そして、身軽になって、自分にしかできない子育て、始めましょう!

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